朴念仁の戯言

弁膜症を経て

命(めい)を知る者は天を怨まず

知命者不怨天、知己者不怨人 『説苑(ぜいえん)』

後半は「己(おのれ)を知る者は人を怨まず」。命(めい)は、天が定めためぐり合わせ。天命。
天命を知る者は、何事も天の定めたことで、人の力ではどうにもならないことだからだと考え、天を怨まない。自分を知る者は、他人の自分に対する態度は、自分の言動、態度に原因があるのだから仕方がないと考えて反省し、人を怨まない、ということ。
天命に逆らわないというのは、中国の伝統的な人生観だが、現代ではちょっと通じにくいかもしれない。だが後半は、国や時代を超えて、一人ひとりに大切な心構えだ。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂(のぶお)さん)
※平成21年2月25日地元朝刊掲載

稀勢、執念の変化

検証 春場所逆転V

26日終了の大相撲春場所エディオンアリーナ大阪)で、新横綱稀勢の里の劇的な逆転優勝がファンの感動を呼んだ。13日目に左上腕部を負傷しながら強行出場し、千秋楽に本割、決定戦で奇跡の2連勝。背景などを検証した。
休場危機に陥った13日目の夜以降、東京や千葉、静岡から旧知の専門家が大阪へ駆け付けて治療を施した。前向きになり、「やると決めた以上は絶対諦めないでやると思った」と決意した。患部にテーピングをした14日目は横綱鶴竜に完敗で2敗目を喫した。
1敗で首位だった大関照ノ富士との千秋楽。15歳での初土俵から立ち合いの変化に頼ることのなかった稀勢の里が、本割で迷わず左右に動いた。変化は褒められるものではないが、勝利への執念がにじみ出た。二日ぶりに行ったこの日の朝稽古。右に変わり、もろ手突きを試す周到さだった。
最初の立ち合いで右へ変化したが不成立。「同じことはできない」と二度目は左へ跳び、動き続ける。痛む左差し手を抜き、相手を俵伝いの右突き落としで仕留めた。
2002年初場所千秋楽。千代大海との優勝決定戦を変化で制した玉ノ井親方(元大関栃東)は言う。「大一番での変化は相当な覚悟がいる。腹を決める以外にない」。そして本割の
稀勢の里を見て、「開き直って、下半身で取っていた」と決定戦での勝利を確信した。
不慣れなもろ手突きで立った決定戦。稀勢の里はもろ差しを許して後退しながら土俵際の右小手投げで逆転した。「上(半身)が駄目なら下でやろう。疲れはなく、下半身の出来がすごく良かった」と話す。大関昇進後に合気道で学んだ「上1、下9」との理論に下半身強化の重要性を再認識。四股やすり足を増やした努力が逆境で生きた。
照ノ富士は13日目に古傷の左膝痛を悪化させ、歩くのもやっとだったという。加えて、14日目に稀勢の里と当たった鶴竜が「こんなやりづらいものはない」と語ったように、目立つ大けがをした相手と取る難しさも、逆転の陰に見え隠れする。
稀勢の里の左上腕は内出血で赤黒く変色し、春巡業の休場を決断するほどの症状だ。新横綱は「自分一人の力じゃない。見えない力」と無形の力を勝因に挙げる。表彰式で君が代の大合唱の中、初優勝の先場所以上に涙を流した。(田井さん)
平成29年3月31日地元朝刊掲載

「私の肝臓をあげます」

いのちのコンパス 生体移植という選択
余命3カ月の父助けたい

付き合って7年の彼は心配しないかな。そんなことを考える前に、川野祥子さん(28)の口は動いていた。
「私の肝臓を、父にあげます」

2006年4月、父の弘さん(55)に付き添って鹿児島県内の病院を訪れた時のことだ。弘さんは肝臓がんと診断され、体調は日々悪化していた。この日の診察では、ついに「余命3カ月」と告げられた。
駐車場の車の中で黙り込む弘さん。祥子さんはいま出てきたばかりの診察室に一人で引き返し、医師に尋ねた。
「父を助けるには、移植しかないんですよね」
「そうは言っても、提供者が決まらないことには始まりません」
医師は机の書類に目を落としたまま、気乗りしない様子で答えた。脳死移植は提供数が極めて少なく、生体移植はドナー(提供者)に大きな負担を強いる。肝臓では、手術に伴うドナーの死亡例も国内で一例だけある。
家族と離れ、島にある小学校の保健室で働く母恵子さん(52)には健康上の不安があり、提供は難しい。あとは自分と、二人の妹。祥子さんは迷わず提供の意思を伝えた。医師は顔を上げ、祥子さんをじっと見つめた。
帰宅後、祥子さんは寝室にいた父に「移植するから」と告げた。返事は聞かずドアを閉めた。
自分のためにドナーになろうとしている娘。弘さんの心は揺れた。うまくいくと限らないのにわが子の体にメスを入れていいのか。たとえ自分は助かっても、娘に万一のことがあったら。
「何を考えているの?」。祥子さんから突然問い掛けられた。余命宣告から数日後の夜。迷ったまま、テレビをぼんやり眺めていた。
数秒の沈黙。「移植はしなくても…」。うつむいたまま、口にした。
「お父さん、生きたいの、生きたくないの?」
怒ったような口調。弘さんは気おされた。
「…生きたいよ」
「じゃあ、決まり」
祥子さんはさらりと言った。
当初は提供に賛成だった恵子さんは、移植の準備が進むにつれて、最悪の事態ばかり考えるようになった。
「もし命がなくなったらどうするの」。祥子さんに毎日電話をかけ、泣きじゃくった。
祥子さんと交際していた山本陽平さん(30)も、本音は提供に反対だった。インターネットで情報を集め、医師の説明も聞いたが、不安は募るばかりだった。
言い出したら聞かない性格の祥子さん。どうしても止めたくて、遠回しに思いを伝えた。「事の重大さを分かっているの?」「怖いなら怖いって言っていいよ」。
祥子さんの気持ちは変わらなかった。でも心配してくれる両親や彼のことは気掛かりだ。
「私にもしものことがあったら、この人たちはどんなに悲しむだろう」
手術は6月15日と決まった。祥子さんは入院のための着替えをバッグに詰めながら、そう考えていた。(文中仮名)
※平成21年2月23日地元朝刊掲載

 

見えない力

「これで終わったな」
14日目の鶴竜戦で力なく土俵を割った姿にそう思った。
大方の国民もそう思っただろう。
稀勢の里の優勝は消えたと。
13日目の日馬富士戦で手痛い一敗を喫した上に致命的な怪我を被(こうむ)った。
痛みでその場を動くこともできずに顔を顰(しか)める稀勢の里の表情からは休場の文字が浮かんだ。
そうして迎えた鶴竜戦。
怪我の影響が疑いようもない負け方だった。
千秋楽は星の差一つでトップに立つ照ノ富士
本割で勝ち、さらに優勝決定戦で勝たないと稀勢の里に優勝の目はない。
絶望的だった。
どうあがいても無理だと思った。
同じ立場だったら弱気に、自分の負ける無様な姿を思い浮かべていたに違いない。
この怪我なら負けても仕方がないと。
ところが稀勢の里は違った。
最後の最後まで諦めなかった。
それが如実に表れていた対照ノ富士戦だった。
本割では立ち合いを躱しての突き落とし、優勝決定戦では押し込まれながらも小手投げ、いずれも土俵際まで粘り、見事に優勝を勝ち取った。
その瞬間、私の体の深部に力が漲(みなぎ)った。
稀勢の里の最後まで諦めない気持ちがテレビ画面から放射されたのだ。
優勝が難しくとも応援し続ける国民の想いが稀勢の里の背中を押したのだろう。
稀勢の里が優勝インタビューで話した「何か見えない力を感じた15日間」とはこのことだと信じて疑わない。
「相撲人生の15年間が凝縮された特別な15日間」
この春場所は正にそうだったのだろう。
待望の日本人横綱
この漢(おとこ)の力士としての行く末に期待したい。

 

偏見に立ち向かう

植物の受精の講義をしたら、少女たちの前で性の話をしたようにすり替えられ、博物館長のいすを失ったのはフランスの昆虫学者ファーブルだ。
1823年貧しい農家に生まれ、独学で教員免許を取得、教育界で力を付けてきたのを快く思わない師範学校出身者らが仕組んだらしい。
1809年2月12日英国で生まれ、今年が生誕200年のダーウィンが唱えた生物進化の法則も宗教家の激しい反対にあった。自然淘汰(とうた)説で生物が適応する仕組みを解明した「種の起源」出版から150年にもあたる。
大著「昆虫記」を残したファーブルには貧困がつきまとい、世界から届いた寄金を送り返した晩年の逸話も伝わっているが、裕福な家庭に育ったダーウィンは英海軍の帆船「ビーグル号」で5年かけ世界一周、進化論の着想を生む旅になった。
父の跡を継ぐため医学部に進んだが血を見るのに耐えられず断念したダーウィン誕生の日に米国ではリンカーンが産声を上げ、血を流す奴隷解放の戦いを強いられている。ちなみにダーウィン奴隷制には反対したそうだ。
人類と他のほ乳類が別々に創造されたと信じたのが実に不思議なことだと考える時代がくるのも遠くはなかろうとダーウィン。生きた月日が重なる三人の生き様は偏見に立ち向かった歩みとも通じることだろう
※平成21年2月12日地元朝刊「編集日記」より。(下線部、朴念仁修正)

 

社会性が生みだした長寿

霊長類学者 山極 寿一(やまぎわ じゅいち)さんが語る

霊長類で「老い」がはっきり見て取れるのは、人間だけですから。
「おばあちゃん仮説」というのがあってね。雌が「自分の繁殖をやめて娘、息子、若い世代の繁殖を手伝って、孫世代の生存価を高める」ということを、人類はいつのころからか始めた。
「閉経」っていうのは人間だけにある現象でね、普通は繁殖能力がなくなるときが寿命の終わり。人間はその閉経の時期を前にずらして、まだ元気なうちにおばあちゃんになって、生計活動に参加する。共同で育児をするというのは人間の大きな特徴だけれども、それが可能になったのは、おばあちゃんの力が大きいというわけだな。
なぜかと言うとね、人間は直立歩行のせいで骨盤が小さいから、大きな子どもを生めない。まだ胎児の状態で生んで、生後はとにかく脳を発達させる。体の成長は後回しにしてね。子どもがたくさん死ぬサバンナという環境で、出産間隔を短くして子どもを増やす戦略を取ったから、母親は何年にもわたってひ弱な子どもを何人も抱えることになった。一人じゃ育てられないんだよね。
「共同育児」は、人間の社会性の中に非常に深く組み込まれている。つまり人間は、脳の大きな子どもを育てるという作業を集団全体で行ったがためにね、非常に奇妙な社会性と生活史を手に入れた。その結果起こったのが老人が長生きするっていうね、それまでに霊長類が獲得したことのない性質だったんだろうね。
もちろん老化、ということもある。でも自力で生きられなくなった人を集団で生かした痕跡は、すでに160万年くらい前の化石証拠があるからね。歯が全部なくなってその後も生きたという。離乳食と同じようなものを食べさせないと死んでいるよね。障害がある者を積極的に生かすというのも、人間だけがやっていることで。それは子育てから来ているのかもしれない。つまり「共感」ってのが必要なわけだ。他者に非常に強く共感を持つということが、人類の重要な特徴だからね。でもね、人間は共感する力を、悪用しちゃっているわけだよ。集団意識を高めて戦争するってのは、共感の最悪のシナリオだ。
介護っていうのも人間にとっては非常に古い、100万年以上前からあったことなんだけど、社会の中にどう組み込んでいくかというのはなかなか難しい。江戸時代の「隠居」なんてのも、老後、それまでと違う人生を送らせて「あげる」っていう、社会のロジック(論理、論法=考え方)だったかもしれない。それももう機能しないだろうしなあ。
いや、私なんかも早々と引退しようかと思ってるんだよね。自由に野山を歩きたいし。フィールド(野外)に出るときはいいんだけど、こういうとこ(研究室)にいるのは、もうたまらんと思ってさ。
※平成21年2月6日地元朝刊掲載

 

おとうちゃん大好き

一昨日、歯科医院の待合室で中央紙を読んでいたら、1面の編集日記に心が和んだ。
私の子どもだったらどうだろう。
さてさて、その当時の気持ちは今も…。


おとうちゃん大好き

おとうちゃんは
カッコイイなぁ
ぼく おとうちゃんに
にてるよね
大きくなると
もっとにてくる?
ぼくも
とうちゃんみたいに
はげるといいなぁ

(小学一年生・小沢たかゆきくん)
※1987年読売新聞 家庭とくらし面「こどもの詩」欄初出。