朴念仁の戯言

弁膜症を経て

古墳思えば病は小さい

政治学者 草野 厚さん

日本の政治や外交に鋭い論陣を張る政治学者の草野厚さん(69)。慶応大教授を退職後、これまでの研究分野を離れ、古墳のフィールドワークをする毎日だ。全国を飛び回る姿からは、四半世紀近くにわたってC型肝炎ウイルスとの闘い、肝臓がんの大手術を受けた「過去」は想像しにくい。

通告は突如やってきました。2010年8月30日夜、自宅近くのファミリーレストランでカレーライスを食べていたら携帯電話が鳴り、主治医から「草野先生、横隔膜近くの肝臓に26㍉のがんができています。すぐ手術を」と言われたのです。
 👦観念して手術
「なぜ?」「来るものが来てしまったか」という二つの思いが交錯しました。前者は、その17年前にウイルス肝炎と分かって以降、炎症を抑える注射治療を続け、肝機能の数値は正常範囲だったから。後者は、母も、弟も肝硬変や肝臓がんで亡くしていたからです。
「お任せします」と観念するほかなかったですね。手術は7時間に及びました。病室で考えたのは、使命感というと大げさですが、早く大学に戻らないと学生たちに申し訳ないということ。2週間で退院し、10月半ばからゼミに復帰しました。
退院後間もなく、ありがたい話が来ました。私の討論形式の授業(戦後日本外交論)をNHKの「白熱教室JAPAN」という番組で放送しないか、と。正直迷いました。私の授業はイデオロギー色が強く、視聴者から抗議が殺到しそうですし。でも映像の記録に残るという魅力には勝てません。量を増やして行う予定だったインターフェロン治療は、番組の収録まで待ってもらいました。
教壇を去る数年前から、討論の際に気になることがありました。学生にナショナリズムが高揚している状況です。韓国や中国を嫌う理由を聞いてみると、それほど深い知識に基づくものではない。近現代史をつまみ食いしているんですね。
何とかしないと、と思う一方で、私自身が国の出発点の古代史をろくに勉強していないと気付き、退職後本格的に古墳巡りを始めました。これまでに約300基を動画に収めました。何事も突き詰めなければ気が済まない性分ですから。
 👦元気なうちに
がんを引きずるのではなく、「なってしまったものは仕方ない」というある程度の諦めも、順調な回復を後押ししたと思います。巨大な古墳を造った人たちの苦労を考えれば病気なんか小さい。それを確認する旅。忘我(ぼうが)の境地でしょうか。同時に、再発して歩けなくなってしまうかもしれない、元気なうちに成し遂げたいと、自分を急がせている面もあります。
振り返れば、C型肝炎の診断以降、病院通いは生活の一部。病といかに付き合っていくか、でしたね。ウイルスとずっと同居していたわけですから。それも達観につながっているのでしょう。
支えてくれたのは趣味です。一つはパイプオルガン。仕事が縁で自宅にマイオルガンを持つに至り、教室にも通いました。下手ですが、その響きには癒されます。
もう一つは、走ることと格闘技。これは病に勝てる体をつくったかもしれません。今もジムに通い、ボクシングのようなことをしています。気分転換にもなりますね。
新薬の効果もあり、今年春の検査でウイルスは検出されませんでした。がんには引き続き注意が必要ですが、ウイルスは「ついに退治したか」という感じです。アドバイス? 病になっても「療養に専念」との考えは取らないで、と言いたいです。
(文・橋詰邦弘さん)平成29年3月20日地元朝刊掲載

 

熊をめぐる物語

随想

昨年の夏、猪苗代町のある肉屋で熊肉が売られているのを見つけた。珍しいから店の主人にどこ産の肉かを尋ねてみた。「すぐ近くの吾妻山で春に獲れたのよ。親子連れだったそうだが、子熊の方は福島市の居酒屋の主(あるじ)が引き取っていったと聞いたよ」
池澤夏樹著「静かな大地」の熊の物語を思い出した。アイヌの人々は春、弓矢で熊を狩る。親熊の肉は食われ、毛皮は剥がされ、熊胆(くまのい)は万病の薬として珍重された。子熊は家へ連れ帰って大切に育てる。客人のようにもてなし、人間と仲良くなって大きくなったら山に返す。つまり、最後は殺されてしまう。でも、その熊は人間に良くしてもらったよという土産話を持って天に昇る。それを聞いたほかの熊たちは、生まれ変わるなら優しい人間の住む村の近くにしようと言い合う…というお話。
件(くだん)の子熊はどうなったのだろう?
再びショーケースに並んだ熊の冷凍肉に目を戻す。約10㌢ほどの厚さにカットされた肉の断面は二層に分かれている。黒っぽいのは肉で、白っぽいのは脂身だがかなり多い。好奇心からその肉を買いたい衝動に駆られたが、料理法が分からないので諦めた。
つい最近、アウトドア仲間と一緒に山小屋に泊まった際、私は初めて熊汁を食す機会を得た。メンバーの中に熊汁なら何度も食べたという人がいて、熊汁作りを指南してくれた。「熊汁はね、世間で言われるほど臭くはない。よく獣の肉は味噌仕立てで臭みを消す、なんてこというけど、熊汁はむしろ醤油の方が旨いんだ。肝心なのは、水から煮てじっくりアクを取り除くこと」と教えられた。
我々は熊肉の鍋を火にかけた。じっと見ていると、ブクブクと驚くほどアクが出てくる。それを丁寧にすくい、弱火でコトコト煮て気長にスープを作った。仕上げに野菜を入れ、醤油で軽く味付けをして熊汁の完成。さっそく食べてみると、こくのある濃厚な味が口中に広がった。獣臭さはない。スープに野菜の旨味と醤油の香りが絡んで実に美味しい。肉も柔らかく、脂身も溶けるように喉の奥に滑り込んでゆく。一同マタギの喜悦を味わった。
熊汁を食べ終わると、急に身体がポカポカしてきた。外は大雪だというのに、散歩に出かける者もいたほど。熊汁は山男のパワーの源だったんだなぁー。
アイヌの人々は狩りの後、獲物の魂を手厚く神の国に送ったという。自分たちの腹を満たしてくれてありがとうと述べ、その魂が神の国に帰って再び地上に生まれ変わることを祈るのだそうだ。
熊肉は珍しいからたまたまこんな話を思い出したけれど、我々は日々、他の命に自分の命を支えてもらっていることを忘れがちだ。こんな機会だから…とその夜、私は雪降る森の中で「熊さんありがとう」と手を合わせた。

NPO法人あったかネット理事・立花美由紀さん)平成21年2月5日地元朝刊掲載

 

修羅を抜け、命問う

次男自死、妻の破綻…宿命受け止めた 作家 柳田邦男さん

悲しみは真の人生の始まり。肉体は滅んでも魂は生き続ける―。作家の柳田邦男さん(80)は事故や災害、闘病の現場に立ち、命の意味を問い掛けてきた。年齢とともに円熟味を増すその死生観は、57歳で経験した壮絶な体験抜きに語れない。
▣打ちひしがれ
対人恐怖症などに苦しみ自宅に引きこもっていた25歳の次男が、自室のベッドで首にコードを巻き、自死を図ったのは1993年の夏の夜。搬送先の病院で蘇生後、脳死と判定され、臓器提供に至る経緯と家族の葛藤は、95年の労作「犠牲(サクリファイス)」に詳しい。
修羅は続いた。感情の起伏が激しく、抑うつを抱えて入退院を繰り返していた妻の人格が、愛息の死を受け止めきれず破綻の危機に追い込まれた。台所から刃物を持ち出し、首をつるなど問題行動が続発。柳田さんも心労で心身の平衡を失い「妻にも息子にも申し訳ない気持ちでいっぱい。無力感と自責の念が胸をふさぎ、死んで謝りたいと思った」と打ち明ける。
なぜ救えなかったのか…。
答えのない自問を繰り返し、「外のことばかり書かずに、この家の地獄を書けよ」と迫った生前の次男の言葉に打ちひしがれた。命の危機と向き合う苦しみを本当には理解していなかった自分の非力を痛感した。
▣背中を押され
窮地を脱出できたのは「母のおかげ」と柳田さんは言う。敗戦翌年に肺結核で夫を奪われながら、粛々と子育てを全うした母。内職で家計を支え、子どもたちの食べ残しで空腹をしのぐ愛情深い姿が、今も目に焼き付いている。
「宿命を受け入れ、でも諦めない。気が付けば難所を越えている。そんな母の生き方が背中を押してくれた」。止まっていた「物書きの日常」が再始動し、雑誌と新聞で執筆を再開。書くことで内心のカオス(混沌としたさま)から物語を紡ぎ出し、約一年で書籍刊行にこぎ着けた。
「市井(しせい)の人々の肉声を知りたくて」NHK記者となったのは60年のこと。連続航空機事故を検証した初の著書「マッハの恐怖」を出版し独立後は、科学が照らせない人間存在の深みに目を凝らした。中でも急増中だった「がん」をライフワークに設定。医師の日野原重明さんや心理学者の河合隼雄さんとの出会いもあり、死を宿命づけられた患者や家族の内心に迫る「死の臨床の心理学」を志した。「今から思えば、まるで次男の未来を予見していたかのように死の臨床へ導かれていった。これも宿命でしょうか」
▣越えていく
魂の不滅を教えてくれたのも次男だと感じている。人は一人で生きているのではなく、家族や友人、恩師や先人の魂に生かされている。「自力で人生を切り盛りしていると思ったら大間違いです」
だから、どんな悲しみも不幸ではない、と断言する。近視眼的には「負の時間」でも、悲しみがあってこそ、人は生きる意味や他者の恵みに目を向けることができる。「人生に無意味な時間はありません。息子や妻のおかげで僕の人生も豊かになったと思っています」
熟慮の上で妻と籍を分け、現在は新たなパートナーと歩む柳田さん。最近は、絵本を使った出前授業などで子どもと触れ合うのが楽しくて仕方がないと目を細める。「仮設住宅で暮らす被災地の子どもも、絵本を描く時は日頃の悩みを忘れて、すごくいい表情をするんですよ」と喜色満面で言う。人生の山も谷も知り尽した笑顔が輝いた。

「『仕方なかんべさ』『何とかなるべさ』というのが母の口癖でした」(柳田さん)

平成29年1月11日地元朝刊掲載

 

乾為天(象伝)

象に曰く、天行(てんこう)は健なり。君子もって自強(じきょう)して息(や)まず。
潜竜用うるなかれとは、陽にして下に在ればなり。見竜田に在りとは、徳の施(ほどこ)し普(あまね)きなり。終日乾乾すとは、道を反復するなり。あるいは躍りて淵に在りとは、進むも咎なきなり。飛竜天に在りとは、大人の造(しわざ)なるなり。亢竜悔ありとは、盈(み)つれば久しかるべからざるなり。用九は、天徳(てんとく)首たるべからざるなり。

〔象伝〕
天体の運行は健やかで息(や)むことがない。君子はこの健やかさにのっとって、みずから強(つと)めはげむ努力を怠ってはならぬ。
潜竜用うるなかれというのは、陽剛の徳があって最下の位地に居るからである。見竜田に在りというのは、ようやく徳の感化があまねく行きわたるようになることである。終日乾乾すというのは、反復して道を履(ふ)み行なうことである。あるいは躍りて淵に在りというのは、時機が到来したら前進しても咎を免れるということである。飛竜天に在りというのは、ただ聖人だけがなし得る業(わざ)なのである。亢竜悔ありというのは、盈つればやがては虧(か)ける道理で、長くはその状態を保ち得ないからである。用九の戒めは、陽剛の天徳を恃んで人の先頭に立ってはならぬということである。

 

乾為天(彖伝)

 

彖(たん)に曰く、大いなるかな乾元(けんげん)、万物資(と)りて始(はじ)む。すなわち天を統(す)ぶ。雲行き雨施し、品物(ひんぶつ)形を流(し)く。大いに終始を明らかにし、六位(りくい)時(とき)に成る。時に六竜(りくりゅう)に乗り、もって天を御(ぎょ)す。乾道(けんどう)変化して、おのおの性命を正しくし、大和(だいわ)を保合(ほごう)するは、すなわち利貞(りてい)なり。庶物(しょぶつ)に首出(しゅしゅつ)して、万国ことごとく寧(やす)し。

〔彖伝〕

偉大なるかな、乾元のはたらきは! よろずの物はこれをもととして始められる。言うなれば天道の全体を統べるのが乾の元徳である。この乾元の気はやがて雲となって流行し雨となって降りそそぎ、ここによろずの物もその形体を備えるにいたる。これが乾の亨徳すなわち流通のはたらきである。かくて乾卦においてはきわめて明らかに天道の始終が呈示され、それぞれに時機に応じて六爻の地位が措定(そてい)されている。故に聖人たる者はしかるべき時々に六竜すなわち六爻の陽気にうち乗り、天道を馳駆(ちく)することを得るのである。さらにまた天道は刻々に変化するが、その変化に応じてよろずの物(草木も人間も)は天から稟(う)け与えられたそれぞれの性命を正しく実現し、大自然の調和を保有し和合する。これが乾の利貞の徳である。故に聖人たる者がこの天道にのっとって、衆庶(しゅうしょ)にぬきんでた地位をとり保つならば、万国はことごとく安寧を得るのである。

☰☰ 乾為天 けんいてん(彖辞・象辞)

乾(けん)は、元(おお)に亨(とお)りて貞(ただし)きに利(よ)ろし。
初九(しょきゅう)。潜竜(せんりゅう)なり。用うるなかれ。
九二(きゅうじ)。見竜(けんりゅう)田(でん)に在り。大人(たいじん)を見るに利ろし。
九三(きゅうさん)。君子終日乾乾(けんけん)し、夕(ゆう)べに惕若(てきじゃく)たり。厲(あや)うけれども咎(とが)なし。
九四(きゅうし)。あるいは躍(おど)りて淵(ふち)に在り。咎なし。
九五(きゅうご)。飛竜天に在り。大人を見るに利ろし。
上九(じょうきゅう)。亢竜(こうりゅう)悔(くい)あり。
用九(ようきゅう)。群竜(ぐんりゅう)首(かしら)なきを見る。吉なり。

☰☰は六爻(こう)皆(みな)陽、純陽の卦(か)。天のはたらきの健やかで息(や)むことのないのに象(かた)どる。形体をもっていえば天であり、そのはたらきが乾=健である。占ってこの卦を得た者は、その望みが大いに通るであろう、よろしく貞生(ていせい)の態度をとり保つべきである。
初九は最下の陽剛(ようごう)、たとえれば地下に潜(ひそ)む竜、才徳があっても軽々しくこれを用いることなく、修養して時機の到来を待つべきである。
九二は陽剛居中(いちゅう)、竜が田(地上)に姿を現わしたように、その才徳もようやく明らか。目上の大人(九五)に認められれば、おのれを伸ばす好機会である(彖伝(たんでん)、文言伝は、大人をこの九二を指すとする)。
九三は下卦(げか)の極、警戒を要する危位(きい)。君子たる者、終日つとめにはげみ、夕べにまた反省して惕(おそ)れ慎むこと忘れなければ、危(あやう)いながら咎は免(まぬが)れる。
九四は下卦から上卦(じょうか)にのぼったはじめ。将来の躍動を目前にして、なお深淵に臨む時の心構えで身を慎めば咎を免れる。
九五は陽剛中正、飛んで天に昇った竜。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下(ざいか)の大人賢者(九二)を得てその助けをかりることを心掛けるがよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)。
上九は陽剛居極、天を昇りつめて降りることを忘れた竜。勢位(せいい)を極めておごり亢(たか)ぶればかえって悔をのこすことにもなる。
用九。むらがる竜が姿を現わしながらもその頭を示さぬよう、才徳をひけらかすことなく柔順で控え目にすれば吉である。

易経・上、高田真治・後藤基巳 訳より)

 

夢見ているよう

3.11あの日から

はだしで家を飛び出して車に家族を押し込んだ。痛えなんて感じねえ。目の前の車乗んのも、はっていくのが精いっぱい。家族を山に避難させて港に走った。津波から船を守るには沖に出すしかねえからね。海水が渦巻いて引いていた。ただごとでねえと思った。
ふつう、エンジンは暖気運転しないとアクセル全開にできねえんだけど、暖気もへったくれもねえ。時速40㌔ほどの全開で沖に向かった。1.5㌔くらい走ったところで高さ10㍍の津波が来た。(ありえ)ねえ、ねえ、ねえ。夢見ているよう。
全速力で走らせても元に戻される感じ。この波乗り切れなかったら終わり。よろよろで九分九厘諦めていた。もう駄目だってなると家族のこと考えんのね。山さ逃げた家族に会えねえのかなって。
これまで台風も突風も食らったけど、津波はおっかねえってもんじゃねえ。想像を絶する恐怖だね。
津波を越えたらその場で座り込んじゃった。九死に一生を得たって。きっと数分の違い。しょんべんむぐす(失禁した)のも分かんねかった。津波越すと、海は鏡のような別世界だった。
後ろを向いたらおれげ(私の家)がある方に津波がぶつかって土煙が舞い上がった。うちに家族いなくてよかったなあ。「千年に一回」なんていうけど、なんで俺が生きてる時代にくるかなあ。
俺は家族が無事だって知ってたから安心だったけど、家族は心配してた。夜になると船は明かりつけんのね。高台からみんな明かりで船の数を数えんの。仲間12隻。その中に俺がいるのも分かったみたい。

いわき市の漁師・阿野田城次さん51歳)平成23年4月17日地元朝刊掲載