朴念仁の戯言

弁膜症を経て

葬儀日に届いた父の検体申込書

父への検体の申込書が届いたのは葬儀当日だった。近所の人に相談したら「おれたちには関係ない。家族で決めろ」とのことだった。「無駄な慣習はやめ、世のために何か尽くしたい」というのが父の遺志だった。気が動転している家族で即決できるわけがなく、父は火葬された。
予想を超える葬儀代の請求書にがくぜんとし、また、父の遺志をかなえてあげられなかったことを悔やみ、そして命の終わり方を考えておくのに早過ぎることはないと痛感した。
それにしても医療費や保険税の高騰で若者に負担をかけることを憂い、生涯通院しなかった父を裏切り、救急車を呼んでしまった。
そして父は多忙で粗雑な看護を受け逝ってしまった。父を殺したのは私かもしれない。

(主婦・門馬貴子さん46歳)平成20年12月8日地元朝刊投稿

 

冬を楽しむ

随想

これから厳しい冬を迎えますが、会津の冬といえば、真っ先に雪が浮かんできます。私たち会津に住む多くの人々にとって雪は、一般的にマイナスのイメージしかありません。しかし、視点を少し変えると、雪どけ水は落葉の分解を助け、岩石層を通してミネラルたっぷりの伏流水を提供してくれます。また、冬においしくなる漬物や酒、みそ、しょうゆも、このすぐれた伏流水のおかげなのです。
晩秋になると落葉樹は葉を落とし、一見、枯木の様に見えます。日本の美を代表するさび、わびの原点は、葉を落とした状態の「枯れる」と、冬の厳しい寒さがもたらす「ひえる」という二つの美意識が元になっております。秋の紅葉は、だれが見てもきれいに映ります。室町期の先人は、厳しい環境での木々本来の姿に美を見いだしたのです。そこから茶の世界にさびが生まれ、わびへと発展し、千利休によって大成された日本を代表する茶道となったのです。
このような流れを見てくると、雪国会津は「枯れる」「ひえる」を代表する地域なのです。利休は茶道の精神として藤原家隆の「花をのみ 待つらむ人に 山里の 雪間の草の はるを見せばや」の歌を示しており、ここから山里銘の茶碗が多く見受けられます。会津では一面の雪野原から力強く芽を出すフキノトウが、そうした世界を表している様な気が致します。
現在の会津は、昔に比べ雪も半分以下であり、道路もきれいに除雪され、先人が経験した大変さは、昔物語になってしまいました。しかし六代目豊意の時代は暖房設備も充実しておらず、そのため、粘土は凍(し)みやすく、乾燥もままならぬことから、冬の間はロクロもニシン鉢づくりも控えめにし、春に向けて道具を整えたり趣味の川釣りの準備をしたり、合間には、謡(うたい)を楽しみ、厳しい冬を逆に楽しんでいた様に思われます。現代は厳しさがなくなった代わりに、心も休ませる暇もなく働き続け、ひいては心を病む人も現われてきた様に見受けられます。
戦後の日本は高度成長を求め、働けば働くほど、豊かになる時代でした。その結果、確かに物の豊かさと便利さは手に入れましたが、心の豊かさは失われた様に思われます。七代目が若かりし頃、六代目はあまりにも厳しい環境のため、窯を継がなくても良いと言ったそうです。そうした厳しい生活の中にあっても心の豊かさを見いだした六代目の生き方に私は共感しております。
ニシン鉢がベルギーのブリュッセル万国博でグランプリを受賞して今年でちょうど50年になります。今の世の中はあらゆる面で大変厳しい時代を迎えていますが、厳しくともプラス志向で身を慎めば、心も健康になり実りも多い様に思われます。これからも会津の冬は「宝物」と思い、厳しさを楽しんでいきたいと思います。

(宗像窯八代目当主の宗像利浩さん)平成20年12月9日地元朝刊掲載

 

考えさせられる寿命の不思議さ

この十月に、妹が亡くなった。姉二人と実家の兄も二年前に亡くなっているので、きょうだい七人のうち健在なのは、私と末の妹だけとなった。
年齢、体調からいっても「この次は私の番かな」と思っていた。先日、ある人にその話をすると「死ぬのは病気でもなく、順番でもない。人間が死ぬのは寿命だからで、順番とか、病気とかまったく関係ないんだよ」と教えられた。
確かに考えてみれば、病気で休んでいる人よりも、元気だった人が先に逝ったことを、数え切れないほど見てきた。私も体が丈夫な方ではなく、生身の体は明日に何があっても不思議ではない。政治の世界も同じだ、と思う。

(無職・茨木周太郎さん77歳)平成20年12月1日地元新聞投稿

 

人間は年齢相応に

みにくい年月のゴマカシ

絵本「100万回生きたねこ」で知られる佐野洋子さん。今年70歳となり、雑誌では再発したがんとの闘いを明らかにしている。年を重ねていくことについて寄稿してもらった。
           ◇     ◇
年月に逆らう生き物がいるだろうか。
がんばっているのは屋久島の屋久杉ぐらいではないだろうか。しかしあれはがんばっているのではなく、天寿の全うを生きているのである。
しかし人間は年月に逆らって生きるのが、値打があるらしくいつの間にかなった。
テレビを見ていると、広告だけのチャンネルなどがある。ほとんどが、美容、それもいかに年月のゴマカシをうまくやるかにつきていると思う。整形など、何のうしろめたさもなく、どしどしと結構かわいい子なんかもしているらしく、私の横で「あれ鼻整形」「これコラーゲン注入」などと叫ぶ整形評論家のおばさんもいる。
なる程みなかわいい。大体普通の女の子にブスが居なくなり、足もどんどん長くなっていって、おしゃれも世界一力をこめているのではないだろうか。
日本は平和で素晴らしい。

90歳過ぎのじいさんが冬山に死にものぐるいで登ったり、海の中にとび込んだり、鉄棒で大車輪をやったりする。
そして年齢に負けない、と大きな字が出て来る。
私はみにくいと思う。年齢に負けるとか勝つとかむかむかする。
年寄りは年寄りでいいではないか。
こんなばかげて元気な年寄りがいるからフツーの年寄りが邪魔になるのだ。
実に若々しい女を知っている。60近いが、10才は若く見える。中身はもっと若い。そのへんのネエちゃんと同じである。
「ねエ、六本木ヒルズ行った?」。「表参道ヒルズ行った?」。行くわけがねエだろ。
その女は年齢相応の中身は外見と同じに無いのである。私は70になるが、それなりに人生を生きて来た。赤貧を洗ったし、離婚もした。回数は言わないが、くっつくのは何の苦労もいらないが離れるのは至難の業と、とんでもないエネルギーでぶっ倒れる。
一生の一瞬の光が人生の永遠の輝きである事もある。そして人は疲れる。引力は下からくるから皮膚は下方に向かって落ちて来て、70年も毎日使えば骨だって痛む。しかし、しわだらけの袋の中には生まれて来て生きた年令が全部入っているのである。
西洋は若さの力を尊び東洋は年齢の経験を尊敬し、年寄りをうやまい大切にする文化があった。そして静かに年寄り年寄りの立派さの見本がいつもいた。私はそういう年寄りになりたい。

平成20年11月19日地元朝刊掲載

  

一瞬の出会いに魂込め

地下鉄音楽家(英国)

薄汚れた地下鉄構内を秋風が吹き抜ける。ロンドンの繁華街、サウスケンジントンに夜が迫っていた。それぞれの目的地へ急ぐ大都会の人波。通路に響くクラシックギターの調べが、風の冷たさを心持ち和らげていた。
「ママー!」。英国のロックバンド、クイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」の一フレーズを、聞こえてくるギターに合わせて口ずさみながら、中年男が改札へ向かう。逆方向から6歳ほどの娘と歩いてきた女性は、立ち止まると娘に小銭を握らせた。「あの人に渡してね」。視線の先では、土門秀明(43)が折り畳みいすに座り、黙々とギターを弾いていた。土門のように駅構内で活動するミュージシャンはバスカー、演奏はバスキングと呼ばれる。彼らが奏でるメロディーは、入り組んだ壁に増幅され、退屈な地下通路を巨大な楽器に変える。
ビートルズなどオールディーズを一時間演奏すると、ギターケースに約8㍀(約1,500円)のチップが集まった。普段は二時間で数十㍀稼ぐが、人通りが減ったためこの日は早じまい。「稼がせてくれてありがとう」という思いを込め、がらんとした通路に一礼した。
土門は5年間、ほぼ毎日どこかの駅で演奏し、チップで生計を立てている。この日の仕事場、サウスケンジントン駅のマクレガー駅長は「(バスカーは)われわれの生活の質と環境を向上させている。駅にとっていいことだよ」と話す。
▣イエスタデイ
土門は山形県酒田市で生まれ育った。ベイ・シティ・ローラーズ矢沢永吉をコピーし、文化祭などで演奏するギター少年だった。高校卒業後、バンドを率いて活躍する夢を胸に上京。人気デュオ、バブルガム・ブラザーズのバックバンドとして数年間活躍したが「自分のバンド」という初志を貫こうと、25歳のころ独立。しかし長続きせず、やがて広告代理店の社員に。
社長に次ぐ地位に昇進したが、社内での金銭トラブルに嫌気が差し、退社した。趣味で集めた約30本のギターを売って金を作り、2001年、ビートルズなどを輩出したあこがれの英国に移る。37歳だった。
二年後の03年秋、音楽仲間に誘われるままに、ロンドン地下鉄でのバスキングを得るためのオーディションを受けた。友人の演歌歌手との急造ユニットで北島三郎の「与作」を披露し合格、土門は英国初の当局公認、日本人バスカーとなった。
英国人の前でビートルズを弾くことに、最初はためらいもあった。だが現実には、ビートルズのイエスタデイと、もう一曲しかバスキングのレパートリーがなく「駅員に、たまには違う曲もやってくれと言われた」。
今、レパートリーは約30曲。朝はさわやかに「ユア・ソング」(エルトン・ジョン)、雨なら「虹の彼方に」(映画「オズの魔法使」劇中歌)。街のリズムや空気に合わせ、土門は音を紡ぐ。
▣同時テロ
05年7月7日朝。ロンドンの空気が激しく震えた。52人の犠牲者を出した地下鉄同時爆弾テロが起きたのだ。
大半の路線は翌日再開。土門が演奏の可否を電話で関係先に恐る恐る問うと、受話器の向こうの女性に「今こそバスカーの出番。頑張って地下鉄を明るくして」と気合を入れられた。乗客が激減した駅は、こわばった顔が行き交っていた。
「今日はチップは受け取らない。あなたのために歌う」
別のバスカーから引き継いだ、こう書かれた紙片を掲げ、土門は二時間「虹の彼方に」などメロディーが美しいスローな曲を、魂を込めて繰り返した。土門が演奏を終えて引き揚げる時、その紙はまた、別のバスカーに。「バスカー同士が戦友に思えた」。近くの駅では遺体収容が続いていた。
今年はロンドンを金融危機が直撃。景気も後退し、チップは減り気味だという。
日本でも最近はストリートミュージシャンの若者の姿が目立つが、彼らとバスカーは違うというのが土門の持論だ。「彼らには『おれの曲を聴け』という雰囲気があるが、ここではそれをやったら耳をふさがれる。ぼくらは脇役、通行人が主役。出会いの一瞬に、気持ち良く感じてもらえないと」
吹き込む寒風に指が凍える長い冬。酔っ払いに絡まれたり、不良少年に稼いだ金を奪われたりしたことは一度や二度ではない。
しかし、冷えた指をさすってくれるダウン症の子がいる。金を奪われる一部始終を見ていたインド系の紳士が、大枚をはずんでくれたことも。
目が見えず体も不自由なため、苦労して壁伝いににじり寄って来た老人から「なかなかいいね」と渡されたチップの〝重み〟に、心が震えた。「売れっ子だけでなく、さまざまなミュージシャンを生かし、敬意を払うロンドンの街はすごい」
大都会を癒すバスカーは、いつしか街の優しさに癒されていた。「人に優しく生きていこう」。自分の曲を世界に発信する夢を抱きつつ、土門はこう思っている。

(文・小熊宏尚さん)平成20年10月29日地元朝刊掲載

 

思いやり込める上書き

『日本人の美学12』時と場所

いつどこで、どのようにのし(熨斗)袋を使うのか。のし袋は思いがけないところで必要になってきます。
「のし袋の上書きは御祝、寸志、御霊前の三つだけ知っていれば恥をかくことはない」と発言した人がいてびっくりしたという話を以前書きました。のし袋の上書きには、それぞれの意味と思いやりがあるのです。例えば病気見舞いの時は「御見舞」になります。退院してお返しの時は「快気祝」になります。また「祝入学」の返礼は「内祝」になります。差し上げる場合は祝が上になり、返礼は祝を下に書くのが通例です。
葬儀の時は「御霊前」と上書きします。この場合は薄墨で書きます。市販しているのし袋は「御霊前」と黒々と印刷してありますが、せめて自分の氏名は薄墨で書くとよいでしょう。葬儀に行くことは何かのかかわりがあったからこそ行くのです。亡くなった人に対して哀悼の思いで「私は涙が止まりません。字も曇りがちです」という意味があります。
通夜は身内や親せきが亡くなった人と最後の別れをする場所です。現在では仕事の関係などで、このしきたりは薄れてきました。のし袋にお金を入れる時は、陰陽の解釈でのし袋を開いた時に、お金は裏が見えるように入れます。
葬儀返礼の表書きは「志」になります。昔は若くして亡くなる人が大勢いました。人生わずか50年の時代です。志半ばで他界した人の心の表れといわれています。

小笠原流礼法第32世宗家直門総師範の菅野菱公さん)平成20年9月9日地元朝刊掲載

 

会津の持つ精神的風土

随想

やきものと会津の風土を考えた時、まず会津における国宝の文化財をみると、湯川村勝常寺の薬師堂に安置されている薬師如来座像、日光菩薩立像、月光菩薩立像の三体と会津美里町龍興寺(旧会津高田町)の「一字蓮台法華経開結共」があります。このすぐれた仏像が生まれる背景には、慧日寺(磐梯町)を建立した徳一大師の存在が挙げられます。
徳一は、はじめ法相宗興福寺で学び、後に東大寺にも住したといわれ、その後、奥州に移り会津に住しました。徳一の名を歴史上にとどめることになったのは、天台宗最澄との間で5年余り続いた「三一権実論争」です。本質を追求する教養人である徳一が当時、会津に住することで仏像においてもすぐれた仏像を造るために、当代一流の仏師が徳一の目によって選び抜かれたものと思われます。  
さらに、近世においては、1593年、千利休七哲の筆頭といわれた蒲生氏郷公の存在があります。氏郷公が利休の子息の少庵を会津にかくまい、家康との連判により千家再興をはたしたことが、今の千家繁栄の礎になったと思われます。その証しとして少庵ゆかりの茶室麟閣が鶴ヶ城の中にひっそりとたたずんでおります。
会津本郷の陶器は、かつて粗物(そぶつ)と呼ばれた時期があります。本来の意味を調べてみると、侘(わ)び茶の祖である村田珠光(じゅこう)の茶の心得の第一項に、「上を虚(そ)相に下を律義に」という一文があり、「虚相の美」とも言われます。その意味は、表面はかざらず内面を充実させるということです。また、利休が修業時代、師の武野紹鷗(じょうおう)に「わびとは何か」と尋ねたところ、紹鷗いわく「慎み深くおごりなき様」と言われたそうです。利休からわび茶を学んだ氏郷公が会津のやきものにふれた時、虚相の美を備えていたもので「虚物」と評しました。
しかし一つの産地で磁器も焼かれるようになると、磁器に比べ粒子が粗めの土でできた陶器だけ、いつのまにか虚物が粗物に変わってしまったように見受けられます。それに伴い、やきものを見る目も表面的になり、ものの本質を追求する教養人も少なくなっていったように思われます。
今、宗像窯そして会津のやきものを語る時、質実剛健と言われることがよくあります。
古来、山や河、すべて人間の力が及ばないものに神が宿ると言われ、このような大自然の良い気にふれていれば、人間はより謙虚にならなければならないのに、会津においても他の地においてもこの精神が希薄になっているように思われます。大自然に接している会津人の心の中には寛容と慈悲の精神が眠っていると思います。質実剛健と言われる作品を造る上で虚相の美を備えた会津の風土から来る精神が今、とても大事に思えます。

(宗像窯八代目当主の宗像利浩さん)平成20年8月21日地元朝刊掲載